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MIYAVIの全てがわかる!ギターとの出会いや英語の勉強・世界進出

   


世界で活躍するサムライギタリストMIYAVI。

1981年9月14日産まれの、現在36歳。

2017年でめでたくデビュー15周年を迎えました。

全身タトゥーギター1本が定番になった彼ですが、15年間でそのスタイルも活動も別人級の変化を遂げてきました。

そんなmiyavi中毒の管理人が、幼少期から現在に至るまでのパワフルでユニークすぎる半生をまとめてみました。

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MIYAVIって?

MIYAVIは日本人のギタリスト。

元々は日本で「雅〜miyavi〜」として活躍するヴィジュアル系アーティストでした。

現在はロックギタリストとして、活動の拠点をアメリカに置いています。

実を言うと、私自身は、国内で一番売れていたヴィジュアル系時代の雅には興味無かったのですよ。

見た目だけじゃなくて、動きもくねくねしてたし、今とは別人!

「ウィッシュ」DAIGOがまだまだ全然売れてない頃「ダイゴスターダスト」というアーティスト名で活動していた事は結構有名な話ですね。

その頃TVを観ていたら、DAIGOにmiyaviが、演奏の合間に突然ちゅーしてたんですよ。

衝撃と同時に観客の女性はキャーーー!!!って喜んでいたんだけど、私の中では苦手意識が出てしまったのですよね。

その動画がこちら。

5分11秒あたりで衝撃映像が。

DAIGOも受け入れられない本音が顔に出てしまってる。

今見ると、これも若気の至りだなって思えるほど素敵な男性なんですけどね(^^)

この頃はこの頃でこういう立ち位置が受け入れられたキャラクターだったという感じ。

ただ当時から、ヴィジュアルが売りなだけじゃなくて、かなりギターが上手い事・海外でも活動している事は知ってました。

ちょうど海外で日本の文化が「COOL JAPAN」とか言われだした頃でしたね。

アニメとか、コスプレとか。

その日本特有の文化の一つとして、日本のヴィジュアル系アーティストに注目が集まっていた時期です。

「最近流行りの日本ヴィジュアル系ブームの一人、雅〜miyavi〜」として一部のファンに周知させているような感じでした。

日本から見ると、同じ海外での活動に思えるのですが、当時と今とでは大違い。

今となってはブームでもなんでもない。

1人のロックアーティストとして、確固たる地位を築いています。

彼の海外での呼び名は“サムライギタリスト”。

独自の”スラップ奏法”を武器に、今まで回ったワールド・ツアーはアメリカ・ヨーロッパ・アジアなど世界30カ国で300公演。

ロック発祥の地である欧米のライブハウスを回っています。

ではまず、miyaviを語る上で外せない、スラップ奏法についてお話していきましょう!

 

世界が注目するスラップ奏法とは?

MIYAVIの一番の売りであるギターのスラップ奏法。

その奏法は普通のギターとは随分違います。

①まずピックを使いません。

②自爪で5本の指をバラバラに動かして弦をかき鳴らします。

③ギターのボディやネックを叩いて、パーカッションのような音を出す。

それによって、1つのギターから出ているとは思えない、沢山の音が生まれるのです。

言葉だとピンと来ないかもしれないので、わかりやすい動画を載せておきます!

これ、彼の2010年にリリースした「what’s my name」という曲をソロで演奏した時のもの。

ではなぜこのスラップ奏法が生まれたのでしょうか?

世界進出の為のスラップ奏法

この奏法を編み出したのも、彼の目線には常に世界進出という目的があったからこそなのです。

既に世界中で、数え切れない程のスター達によって演奏されているギター。

それを日本人である自分が演奏する意味は?

そう考えた時、「ジャーン」と一発かき鳴らしただけで「miyaviだ」と。

誰もがわかる、自分だけのものを発信していくと決めたのです。

その為に考え出したのがスラップ奏法。

日本古来の楽器である三味線からインスピレーションを受け、

パーカッションやベースの奏法を交え生み出したものです。

と、この辺りはどのテレビ番組でも毎回聞かれて答えているので、有名なお話ですね!

では、世界デビューよりももっともっと昔、出生まで遡って彼を紐解いていきます。

音楽を始めるまでのmiyavi

音楽を始めるまでのmiyaviはどんな人生をおくっていたのでしょうか。

出生は?

1981年9月14日生まれ。

本名は石原貴雅。(いしはらたかまさ)

大阪にて出生。

在日韓国人?

韓国籍から帰化したお父様と日本人のお母様の元に生まれます。

お父様の韓国名は「李(lee)」。

彼自身はずっとその事を知らなかったようで、大人になって始めて”日韓ハーフである事”を聞かされたそうです。

両親は離婚しており、かつてはお父様の事は大嫌いだったとか。

映画監督である紀里谷和明氏のインタビューを受けた際、

「同志社大学出身の固くて真面目な父親だった」と、語っています。

自由な発想でグイグイ突き進む彼のスタイルと一致しづらかったのでしょうね。

思春期は特にそういうの、ありますよね。

どちらも悪じゃなくて、親は子を思うから故にしてしまう事。

しかし、自身が子供の父親になった事で、当時のお父様の気持ちが少しわかるようになって、今はそれを受け入れられているそうです。

その頃、背中に「李」の大きなタトゥーを掘りました。

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「嫌ってもソリが合わなくても、父の子であり、自分の半分は李なのである。」という受け入れの現れです。

飛び抜けて裕福でもなければ、貧しくもない、離婚している事以外は普通の家庭環境だったそう。

親の離婚で子供の経済状況を振り回さなかったのは、立派ですよね。

ではそんな家庭で育ったmiyavi自身は、どんな子供だったのでしょうか。

セレッソ大阪のジュニアユースだった少年時代

MIYAVIは小学生の時、サッカー部に入部します。

きっかけは、好きな女の子に言われた

「石原くんは野球かサッカーどっちに入るの?」の一言。

特に理由も無く咄嗟に、「サッカー」と答えてしまった為、入部が決定します。

現在の身長は181センチ。

当時から運動神経超バツグン。

クラスの中心人物で、人気者だった彼。

ポジションはボランチ。

サッカー部でメキメキ才能を開花させます。

苦労はさておき、天は二物も三物も与えた事は間違い無い。

何と15歳でセレッソ大阪のジュニアユースに合格しております。

そんな子学年に一人いたか、いないか、くらいでしたよ。

小学校の時からキラキラ星の住人。

素敵。

しかし、全てがこのままうまく行くわけではありません。

挫折があってこそ人生。

それが次の章のお話。

毎日練習場に向かうハードな日々

このセレッソへの入団が、彼の人生を大きく変える事になります。

練習場は兵庫の尼崎。

学校が終わるとそのまま電車に乗り、ヤンマーディーゼルの練習場に向かいます。

電車内でユニホームに着替えるほど多忙な生活を送るようになり、学校ではいつも寝ているような状態になってしまったとか。

かつては部活のキャプテンとして、皆と一緒に楽しくサッカーをしていた石原少年。

セレッソに入った事で、クラスの友達と距離ができ、学校生活がつまらないものになってしまいます。

この話を聞いた時に思ったのが、子育てってつくづく難しいなー。

自分の子供が大好きなサッカーでプロチームのジュニアユースに入る事ができたら、とっても喜んでしまうし気がするんですよね。

でも肩書だけではわからない苦労が本人なりにはあるわけで、

美しい履歴書を作る人生が良い物とは限らないという事ですね。

怪我をきっかけに挫折、セレッソ退団。

そしてタイミング悪く、練習中に脚を骨折します。

怪我によって1ヶ月以上、練習に参加出来なくなりました。

この1ヶ月が、プロのチームにとっては非常に大きな空白で、怪我が治った頃には全てのフォーメーションやメニューが変わってしまい、全然練習についていけなくなってしまったのです。

元々、プロのジュニアユースは、コーチがコロコロ変わったり、戦術も次々に変化したり、学校の部活とは全く違うシビアな世界。

ただでさえ楽しめなくなっていて、サッカーへの気持ちが100%ではなくなっていた頃の怪我でした。

チームでも学校でも、みんなに置いていかれた感が強くなり、そのまま離脱してしまいます。

元々が華やかなポジションに居た彼なだけに、余計その寂しさは耐え難いものだったんでしょうね。

私がこの話を聞いた時に感じたのは、「今こんなに華やかで素晴らしい成功を収めている人でも、スタートは普通の少年の挫折だったんだな…。」という事。

とっても人間味を感じ、その人となりに注目したきっかけでもありました。

ギターとの出会い

高校には一応進学するものの、サッカーという情熱を燃やせる対象を失った彼は、友達とやんちゃするように。

そのまま遊びの延長で、不良仲間とバンドを始めます。

特にあこがれのアーティストがいたわけでも無く、言われるがままにギターを担当する事に。

guitarist hands playing country guitar

石原くん、ギターに出会う。

初めて「ジャーン」とギターの弦を鳴らした時、大勢が熱狂するライブステージで、自分が演奏するビジョンが見えたそうです。

特定の曲を弾くよりも、コードを覚えて自由にかき鳴らしてセッションする事が多かった彼は、サッカー以来の「自由に表現できるもの」を見出します。

そのまま見事のめり込み、高校を中退

なかなか破天荒ですね。

17歳で上京

それからはライブハウスに入り浸りになって、いたのですが、17歳の時に転機が訪れます。

大阪で一緒にギターを弾いたりしていつも遊んでいた先輩が突然亡くなるという不幸に見舞われます。

あまりのショックに、そのまま電車に乗り、上京。

持ち物は”PHSとタバコだけ”。

ロケンロールですね。

漫画の設定みたい。

京都にいるお母さんに、「東京に行く」と電話したところ、「気をつけや」と受け入れてくれたそうです。

この、「お母さんが自分の意思を受け入れてくれる環境」というのは子供の人生に大きな影響を与えますよね。

少し話がそれますが、miyaviは米国に移住する前は、お母さんを関西から東京に呼んでいます。

海外にいる事が多い自分に変わって、子供たちの子育てのサポートをしてもらっていたのです。

それは後述する奥様のお母様も。

状況に応じて柔軟に対応して受け入れてくれる親子関係が伺えるエピソードですよね。

さて、なんのアテもコネもなく東京に行った石原少年はどんな日々を送ることになったのでしょうか。

元カノがガングロになっていた衝撃

東京に唯一いた知り合いが、元彼女。

親の転勤の都合で別れる事になった彼女に連絡をし、会う約束をしたのです。

彼女は学校に行ってたので、朝から夕方まで学校が終わるのを待っていたmiyavi。

現れた大好きな元カノは、東京に染まりきってガングロギャルになっておりました。

しかももう彼氏もいた。。。。

頼る事も叶わず、諦めてライブハウスに潜り込むようになりました。

Dué le quartzに加入

ライブハウスに出入りするようなり、そこでヴィジュアル系ロックバンド・Dué le quartz(デュールクオーツ)のメンバーに出会います。

出会った日に曲を作り、才能を見込まれてバンドのメンバーに仲間入り。

その時に彼は、「今後全ての楽曲の作詞作曲を自分が担当する」という条件を承諾してもらったそうです。

当時最年少で。

こういうエピソードを聞いてると、すごい人って最初からすごい匂いがプンプンしますよね。

人気絶頂で解散に至るまでの苦悩

Dué le quartzはインディーズバンドとしてはかなり人気のあるグループでした。

「有限会社PS COMPANY」という音楽プロダクションに所属しており、CDも順調にリリースを重ねます。

しかし、実際は悩む事も多く、デビューから3年で解散してしまいます

当時の事をインタビュー何度か語っています。

彼自身はギターを初めて弾いた頃に描いた大きな大きな目標があり、それをこのメンバーで叶えたいと思っていた。

しかし、メンバーと彼には理想の壁があったようです。

人気が出てちやほやされるようになり、いつも遊んでばかりいるメンバー。

毎日徹夜で音作りをする自分。

かつて掲げていた目標とは程遠い現状に絶望と情けなを感じた彼は、「もう死んでしまおう。」1人で沖縄に旅に出ます。

宛もなく沖縄に到着し、ビーチで黄昏ているmiyavi。

するとそこに現地のアメリカ兵たちがやってきて、ガンガンに絡まれる事態に。

とにかく明るくファンキーに絡み続ける彼らを見ていたら、悩んでいるのがバカバカしくなってしまったとか。

そこでもう一度Dué le quartzでやっていく事を決意。

右手の手の甲に、「Dué le quartz」とTATOOを入れて東京に帰ったのでした。

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解散後、「雅〜miyavi〜」としてソロデビュー

しかし、実際はメンバーとの音楽への姿勢による溝は埋められず2002年9月に解散。

当時のマネージャーで現在の社長にあたる尾崎友美氏に、その才能を高く買われていたMIYAVはそこで終わりませんI。

翌月の10月には、アルバム『雅楽-gagaku』を発表し、ソロ活動を開始します。

もちろん所属事務所も変わらずPSカンパニー。

デビューライブのバック演奏が、LUNASEAの真矢や、X JAPANのPATA。

今までヴォーカルもしてなかった自分が、超ビッグネームの方々に…。

内心「何かごめんなさい」状態だったとか。

今まではずっとギターを演奏していて、歌は歌って来なかったmiyaviですが、ソロとなればもちろん歌う事になります。

まだまだ歌唱力が足りないと感じ、一旦ギターを封印して歌に集中する事に。

さすが、努力家!そういうところも好きです。

当時の努力の甲斐あって、今ではシャウト系からしっとりとしたバラードまで歌い上げています。

私が個人的にしっとり系で好きな曲で「Guard You」という曲があります。

TVで披露される事はほぼありませんが、MIYAVIのハスキーボイスが生きてます。

お子さんと離れ離れで過ごす事も多い彼が、「離れていても、それがあなたを守る事の手段の一つなんだ」という愛を詰め込んだ歌詞もとっても素敵。

是非。

最近のmiyaviはこんな感じですが、ソロデビュー当時は何もかもが今とは別人。

2004年10月メジャーデビュー

インディーズ時代を経て、2004年10月20日にメジャーデビューを迎えた雅。

レコード会社はユニバーサルミュージックと契約します。

この時「ユニバーサルと結婚する」と発言。

当時の雅は、独特なファッションや丹精なルックス、確かなギターテクニックで、ヴィジュアル系好きな女性から絶大な支持を得ていました。

ファンの事を「仔雅」と呼んでいて、派手なメイクに顔面ピアス。

今とは別人ですね。

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個人的には断然「今」派ですが、これも強烈な個性として大人気でしたね!

ヴィジュアル系が更に進化した「ネオ・ヴィジュアル系」の象徴として大人気なり、発表するシングルはオリコン10位以内にチャートイン連発。

2005年にはHEYHEYHEYに出演します。

浜ちゃんに叩かれておりましたね。

懐かしい。

その時の動画がこれ。

Miyavi- HeyHeyHey 2005 投稿者 Hakihiko

ちなみにこの回で披露した歌は「結婚式の唄」。

さっきの「Guard You」との歌声の差がすごい!

どっちが正解じゃなくて、どちらも個性。

全ての歴史あってのmiyavi。

さて、破天荒エピソードはこんなもんじゃありませんよ。

人気絶頂でも彼はドンドン進化していくのです。

突然活動休止して海外留学

順調にキャリアを重ねていっていた矢先の2006年、突然活動休止を発表。

ロサンゼルスに3ヶ月間、単身留学します。

理由は、語学の勉強。

自分の人生計画によると、「20歳までに英語が喋れるようになって世界中をい飛び回っている予定」だったとか。

当時25歳。

「時間が押してる!」と感じて活動休止してL.Aに飛ぶmiyavi。

つくづく、できる人って行動力が違うなーと感じます。

現地では朝の7時から起きて、必死で英語の勉強漬けの日々を送ったとか。

ちなみにおすすめの習得方法は、現地の女の子と付き合うのが一番早いそうです。

自分でも、結婚前はとっても「恋多き男」だったと語ってますからね。

モテナイわけがない人生なので全然驚かない。

L.Aでもスラップ奏法でコラボ

L.Aでは、英語はもちろんですが、色んな人たちとのコラボを目標にしていた彼。

公園で、奇妙な姿をしたアジア人がギターを持って座っている姿を見て、最初は周囲の人も奇妙な目線で彼を見ていたそうです。

しかし、彼にはスラップがある!

ギターをかき鳴らした途端に人が集まり、足を止め、現地のダンサーたちとその場でセッションをしていたそうです。

彼自身も3ヶ月間ダンスもやってたとか。

多彩!

25歳で初めて3ヶ月だけ留学に行き、今では米国で暮らし、超流暢に英語が話せるようになっています。

何事も限界を消めるのは自分なんだなーと思い知らされますね。

帰国後の音楽と、世界進出の目標

帰国後は音楽活動を再開。

これまでもヴィジュアル系路線とは少しずつ音楽の方向性も変化を見せます。

和太鼓やタップダンサーとコラボをしたり、ラップを挿入してHIPHOP要素のある楽曲も増えました。

まさに和洋折衷。

海外での経験と、日本人である自分のオリジナリティを融合するようになっていきます。

当時、変化を受け入れられない人からは、「最近どうしちゃったの?」「ヴィジュアル系じゃなくなった」「中途半端」などなど言われる事もありました。

だけど、変化する時って、必ずアンチの声がでるものなんだと思います。

その変化を「進化」に変えるのは自分次第。

当時の楽曲は今ともまた違ったものですが、あの時期があっての今だと言えるのです。

この動画を見てもらうとわかるのですが、着物を着てるんですよね。

「咲き誇る華の様に」のカップリングでは「歌舞伎男子」という楽曲が収録されています。

これも日本人である自分が世界に進出する事を夢見ているからこそなのです。

常に見た目も含めて「魅せる」事を意識しているところがとってもmiyaviらしい。

2007年には、

  • yoshiki
  • Gackt
  • SUGIZO

三人と共に、後に伝説のバンドとなる「S.K.I.N.」に誘われ、ギターだけに限らず、三味線なども披露しています。

そして2009年、音楽とはまた違った大転機を迎えます。

2009年。melodyと結婚、2児の父になる

そして2009年3月に歌手のmelody.との結婚を発表。

嫁さまのmelody.はこの2ヶ月前にあたる1月に歌手活動を引退していました。

夢だった「ファッションデザイナーへの道を歩みたい」と発表していたのですが、結婚発表の際に妊娠が発覚していたので、そういう事だったのでしょうね!

何はともあれめでたし。

melodyはドラマ「ドラゴン桜」の主題歌を歌っていた女性シンガーですね。

個人的にはm-floとのコラボが大好きで、今でも聴いています。

それがこちら。

2009年の7月29日には第一子が誕生します。

名前は「愛理(ラヴリ)」ちゃん。

雅にそっくりな女の子です。

その後は2010年10月21日に第二子も誕生。

2人目の名前は「希理(ジュエリ)」ちゃん。

こちらはmelody.にそっくりな女の子。

お二人とも顔出しされてますが、お子さんなのでここでは遠慮させて頂きます。

MIYAVIのインスタグラムで見る事ができるので、文末にインスタのリンクも紹介させて頂きますね。

とっても子煩悩なパパっぷりで、子供たちと楽しそうに遊ぶ姿が沢山投稿されています。

まだまだmiyaviの変化を恐れない攻めの活動の話は続きますよ!

この二人の父となった事は、今の活動にも大きな影響を与えているのです。

その辺りにも触れていきますね。

所属事務所を独立、社長になる

「本当にこのままで良いのか?自分は世界を相手に音楽で戦うんじゃなかったのか?」と感じていたmiyavi。

子供が生まれた事で、「子供に胸を張って生きられる自分でありたい」と改て思うようになります。

そして安泰だったはずの日本のマーケットでのキャリアを捨てる事を覚悟

2009年に10代の頃から所属していたPSカンパニーから独立します。

そして個人事務所・J-glam Inc,を立ち上げます。

このタイミングで実はレコード会社も心機一転、東芝EMIに移籍。

(※EMIがユニバーサルに買収されて、現在の所属はユニバーサルです。)

海外マーケットに向けて音楽活動

そして本格的に海外に向けて活動をするようになり、北米、南米、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアなど約30カ国300公演以上のライブを行い、今では毎年ワールド・ツアーをする程になりました。

三味線の世界的奏者である上妻宏光氏によれば、

「”海外で活動”という名目のアーティストは多々いるものの、実際は日本人が受け入れられやすいアジア圏などの地域に限定された活動が多い。

そんな中でmiyaviはアメリカや欧州など、アジア人には難しいとされる地域でも本格的に活動して成功している極稀な日本人アーティスト。

彼の音楽を知らないとこの先の人生損をする。」

と、大絶賛されています。

上妻氏とのコラボ映像がこちら。

そして2013年、本格的な世界デビューアルバム「MIYAVI」をリリースしました。

2014年完全に拠点を海外に移す

順調に海外に活動の幅を広げたMIYAVIは、2014年に家族で完全L.Aに移住します。

音楽活動の為と、子供たちに英語をネイティヴで喋れる環境を与えてあげたいからという目的もあっての事でした。

奥様のmelody.は元々ハワイ育ちなので英語が話せるのですが、自分自身は勉強して努力して習得したからこそ、子供たちには言葉の壁が無い状態で育って欲しかったようです。

後述の活動にも出来きますが、彼はとっても教育熱心なのです。

パッと見の印象と違ってすごくしっかりされてますね。

そして9月には、アメリカの名プロデューサーチームJam & Lewisプロデュースによる楽曲「REAL?」を発表。

で、この曲のリリースされた時期、意外な事に彼はすっごく苦しんでいるんです。

大スランプに陥りホームシックになる

その活動はまるで順調に見えますが、実際はこの時期、サッカー以来人生で二度目の挫折と言えるほどのスランプに陥っていたそうです。

やっぱり一番は言葉の壁。

いくら勉強して、ある程度の会話はわかるレベルでも、やはり現地で生活となるとわからない単語続出だったとか。

音楽のセッションをするにしても、皆英語で打ち合わせをする。

実力主義の世界で、わからなければ置いていかれる。

子供の学校の入学手続き1つとっても、先生とのコミュニケーションがうまく取れない。

学校では自分のコミュニケーションツールの1つであるギターも使えない。

いつも人気者だった彼は、サッカーを辞めた当時のみんなが離れてくような気持ちを思い出し、相当精神的に辛くなってしまいます。

東京に帰ろうかとまで考えていたとか。

そんな時支えになったのは、ネイティヴで英語が話せる奥様と、新しい環境でも日々楽しそうに過ごす娘さんたちの姿でした。

教育を目標の一つにおいていた事が、彼の音楽人生の進化を支えてくれる要因になったわけです。

そして彼にさらなる転機が訪れます。

アンジェリーナ・ジョリーからオファー

当時まだ夫婦だったブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが、お忍びで彼のライブを観に来たのです。

アンジーがmiyaviの活動に目をつけ、すっかりファンになってしまったのが始まり。

自分の監督映画の重要キャストの候補にMIYAVIの名前を挙げたのです。

「不屈の男アンブロークン」というタイトルのハリウッド映画。

この映画の「ワタナベ」という非常に重要な役どころへのオファーでした。

ハリウッドデッビューとネットの中傷

最初は演技経験も無いし、断るつもりだったとか。

映画の内容もむずかしいテーマだった事もあります。

第二次世界大戦中の日本軍による、アメリカ人捕虜への虐待と、それに耐えたルイス・ザンペリーニという実在する人物の生涯を描いた作品。

日本人としてこの作品への迷いがあったのです。

しかし、アンジーに、「これは反日映画ではなく、誰もが戦争という異様な状況下の被害者だである。それでもトラウマを乗り越え、相手を許す。許しの境地にある男の人生の物語を伝えたい。」と、彼女の思いを知り、自分が演じる事を決めます。

日本人が捕虜を虐待するというショッキングなシーンもあり、実際日本国内では一旦上映が延期されました。

▶ アンブロークン「不屈の男」が今すぐ見れる映像配信サービスdTV

パイレーツオブカリビアン

そしてMIYAVI自身が、韓国系日本人だった事もあり、まるで反日のような扱いをネット上で受ける事態も起きてしまいました。

実際は前述の通り、自分が三世という事も知らずに日本人として生きてきて、日本人の誇りをもって海外に向けた活動をしていると、彼自身何度も語っています。

実際に、「なぜ世界進出をするのか?」という質問に対して、

「逆に何故世界に向けないのか?日本は島国だけど、もう今は21世紀で、諸外国と同じく、日本は既に世界の中の”日本”だ。日本人が普通にグラミー賞を獲り、日本の音楽が、当然のように世界中で流れるような未来を描いて活動している」と答えています。

因みにあまり知られていませんが、彼の手首には、東日本大震災があった日付が彫られています。

タトゥーを彫る事が立派という事ではありません。

それによって何らかの効果があるわけでも無い。

ただ、一部のネット民によって流された、彼が反日であるといった噂が真実でない事はわかるはずです。

背中に彫られた李の文字も、決して韓国の血を愛し、反面で日本を批判するようなつまらない感情の現れではないんです。

ブランジェリーナと家族ぐるみ

ブラッドとアンジー夫妻に出会った事で、家族ぐるみの付き合いをするようになり、徐々にホームシックが解消されたそうです。

今では離婚してしまったけど、当時は一緒にナイトサファリに行ったり、家にあそびに行ったりしていたり。

いきなり雲の上ほど遠いところに行ってしまった感じ…。笑

彼女との出会いは彼のその後の活動にかなり大きな影響を与えました。

難民キャンプを訪れる

アンジーの難民救済活動に感銘を受け、miyavi自身も2015年にレバノンの子供たちに会いにいきます。

レバノンは人口の4分の1が難民。

その難民キャンプを訪れ、ギターを弾き、彼らとコミュニケーションを取った事で、改めて教育の大切さを感じたmiyavi。

後にもう一度同じ場所を訪問した時、彼らが教育を受けられる環境になっていた事や、ロックスターになりたいという夢を持ってくれた事で、「アンジーほど有名ではない自分にもできる事がある」とその活動に意味を感じます。

以降もmiyaviは難民キャンプ訪問を継続しています。

彼のアルバム「The Others」に収録されている「Alien Girl」はアンジーの事を歌った楽曲。

パワフルな彼女に、相当な影響を受けたのでした。

楽曲を作るってよっぽどですよね。

そして彼のハリウッド進出はこれだけに収まりません。

日本人初・ミッションインポッシブルのテーマソング

その後ミッションインポッシブルのテーマソングも手がけています。

彼自身も、このハリウッド映画での経験を通して、世界を目指すなら音楽だけにこだわらずにあらゆるカルチャーに挑戦していけばいいと、大きな転機になったようです。

この頃、トレードマークでもあったアコギをテレキャスに持ち替えています。

音楽でもそれ以外でも、かなり大きな転機を迎えた時期。

「このままじゃダメだ、世界は獲れない。もっと進化しなくちゃ」とインタビューで話す姿が印象的でした。

紅白出場。SMAPへの楽曲提供

世界での活動のみならず、日本でもここ何年かはまた目立った活動が見られるようになってきましたね。

2014年と2015年には2年連続でSMAPへの楽曲提供。

2014年の紅白歌合戦では、サプライズゲストとしてSMAPのバック演奏に登場しました。

こちらに関してはまとめた記事があるのでよかったらどうぞ!

【紅白】SMAP解散、MIYAVIとの神コラボまとめ【FNS】

SMAPは解散してしまいましたが、解散前には中居くんが金スマにゲストとして招いたり、かなり相性が良かったので、SMAPファンにとってもmiyaviとのコラボは嬉しかったですね!

私は両方大好きなので、たまらなかったですよ。

SMAP解散後も続く交流

解散後も交流は続いており、「Live to Die Another Day – 存在証明 -」がキムタク主演映画「無限の住人」の主題歌になりました。

また、VAMPSのHYDEが毎年主催するHalloween Party 2017では、同映画でキムタク扮する不死身の用心棒”万次”の仮装をして出演しました。

かっこよすぎる。

日本での活動が観られるのは?

日本でも、毎年全国ツアーを行っています。

それ以外だと、年末のFNS歌謡祭にここ何年かは出演していますね。

他のアーティストのコラボでギターを演奏している事が多いですね。

年に何回かは東京に帰ってきているようなので、今年も出てくれるといいな。

NHK「SONGS」で三浦大知・シシド・カフカとコラボ

NHK「SONGS」への出演も話題になりました。

MIYAVI×三浦大知とMIYAVI×シシド・カフカのコラボ、めちゃくちゃかっこよかったです!

唯一無二の存在感を放つ同世代3人によるトークやコラボライブ、興味がある方は是非動画も見て下さい!

beatsのCMキャラクターに選ばれたり、

時計やジュエリーで有名なPIAGETから、「世界の9人」に選出されるほど、すっかり海外でも有名になったmiyavi。

でも相変わらず、根の部分は気さくで面白い関西人ですね。

トーク上手でユーモアが効いてる部分も、miyaviの大好きなところの一つです。

TwitterやInstagramも随時更新しているので、そんな活動の様子を伺う事が出来ますよ!

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まとめ

大阪のサッカー少年から、今では世界で活躍するサムライギタリストとなったmiyaviの半生を紹介しました。

デビューから15年間の活動の中で、過去を引きずる事なく、黒歴史にもする事なく、常に進化して今に至るmiyaviの魅力がお伝えできていれば嬉しいです。

人は自分の行動ひとつで、どれだけでも人生を変えられるという事を学ばされます。

そして、好きな事に一生懸命熱中している人間のパワーも。

きっと、これからも私たちをずっとワクワクさせてくれるはず。

完読いただきありがとうございました。

今後も追記していきたいと思います!

▶ アンブロークン「不屈の男」が今すぐ見れる映像配信サービスdTV

パイレーツオブカリビアン

 


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